|
サー・アーサー・アーストン(、1590年 - 1649年)は、イングランドの軍人。生涯にわたって兵士をつらぬき、イングランド内戦中はイングランド王チャールズ1世を支え続けた。その身の毛もよだつような死に様でも知られる。チェシャーの由緒あるカトリックの家の出。 == 生涯 == === 中央ヨーロッパで === 父はプロの軍人で、1610年代のロシア出征時にカトリックに改宗し、ポーランド王ジグムント3世から関心と信頼を勝ち取った。アバロン領主アーサー・アーストン・シニアは1621年のトルコ戦争でポーランド王へ英傭兵2000名を派遣することに同意した。しかし、ポーランド行きのほとんどの兵士はデンマーク海峡で引き返し、アーサー・アーストン・ジュニアは1621年に約300名のイギリスやアイルランド兵をポーランドに上陸させた。彼らは後にポーランド王の親衛隊になった。アーサー・アーストン・シニアは1624年に逝去。 アーストンは1627年に少佐に昇進し、スウェーデン・ポーランド戦争で華々しい戦績をあげた〔Richard Brzezinski, ''British mercenaries in the Baltic (1)'', ''Military Illustrated, Past & Present'', No.4 (London, 1987). 〕が同年にダンツィヒ(グダニスク)近郊でスウェーデン軍に捕らえられた。アルトマルク休戦協定が締結された1629年、アーストンはポーランドを離れ1631年にスウェーデン王グスタフ2世アドルフからイングランド連隊を編成するよう指示された。翌年ブリテン島から連隊が到着されたが、マッカイ連隊などのスコットランド部隊には敵わなかった。連隊は病気などで急速に衰退し、アーストンは面目を保つため新たにドイツ兵を募集した〔Richard Brzezinski, ''The Army of Gustavus Adolphus (1): Infantry'', (London: Osprey, 1991).〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アーサー・アーストン (イングランド将校)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|